プログラマ行進曲第二章

主にソフトウェア関連の技術をネタにした記事を執筆するためのブログ

ぼくらは【完成品の作り方】じゃなくて、【不細工なものでも作っていいんだという心構え】を知りたいんだって! その2

前回の記事の続きです。

前回の記事で私は以下のことを書きました。

最近私が感じるのは、“世の中に【完成品】ばかりあってあまりにもそれが当たり前になっているが故に、私のような素人がブログを更新するといった広い意味での「ものづくり」をしようとするときにですら、【完成品】と同じクオリティを自他ともに要求するのが当たり前になってきてしまい、こういった風潮があるために「ものづくり」に挑戦しようとする人が挫折しやすいのではないか?”ということです。

こんなことを最近感じているのですが、たまたまネットサーフィンをしていたら同じようなことが書かれたブログを発見しましたので、それを以下に引用したいと思います。

ITジャーナリストの林信行氏のブログエントリー「ブログは会話 + 情報のディスカバリー」から引用

「ブログは会話」これは伊藤穣一さんがよく言う言葉。

ブログの記事に1点の間違いもない完璧なものを求められていたら、堅苦しくて何も投稿できない。
 ある程度、思い込みや勘違いもコミコミにして、ある程度は「エイヤ!」で投稿するからこそ自分の意見が言える。それだけにブログでは記事そのものだけではなく、コメント(や場合によってはTrackback、人によってはdel.icio.usはてなブックマークも)での対話までも含めて1つのコンテンツと捉えて欲しい。

引用元のブログでは「ブログは会話」ということは話題の中心ではない印象を私は持ちましたが、面白い&考えさせられる内容が書かれているので、林信行さんの該当エントリーも是非お読みください。

で、私が言いたかったことに話題を戻します。

一言で結論じみたことを述べてしまえば、「送る or 送られるものによっては送り手側も受け手側も『不完全なもの』、『未熟なもの』を許容していく姿勢が必要なのではないか?」ということです。

現実にどうなっているかという調査を抜きにすると、私の印象では「ものを作りたい」と思っている人は潜在的にかなりいると思います。ですが、こういった人の大半は(私と同じく)「作りたいものが分からない」という悩みと同じくらい「完成度の高いものでなければ世に出してはいけない」というある種ネガティブな意識があるのではないかと思うのです。

勿論、こういった意識がプラスに働いているなら問題ないのですが、多くの場合、「完成度の高いものでなければ世に出してはいけない」という意識が、いつの間にかに「まだ世に出すときじゃない」「まだ不十分だ」「これくらいで出したら恥ずかしい」など、発表から遠ざかる方向になってしまうと思います。特にここ最近は世の中に質の高い【完成品】がどんなジャンルにも存在し、そんな【完成品】の存在をインターネットで簡単に知ることが出来るようになったため、送り手側になりたい人は上記のようなネガティブな思考に陥りやすくなっているのではないでしょうか?

また、受け手側も【完成品】に触れることが当たり前になってしまったために、送り手側になりたての素人にすら同じクオリティを言外に要求する心理があるから、より送り手側になりたての人、あるいはなりたい人は萎縮してしまう。そんな雰囲気があるように思えます(私の考え過ぎでしょうか?)

卑近な例であげるなら、前回の記事で述べたことが当てはまるかと思います。該当部分を以下に引用します。

「完成度を高くしたい!」っていう思い自体はいいものだと自分でも思うんですけど、この気持ちが時として…というよりほとんどの場合、重荷になってくるのが厄介なんですよね。特にブログの場合、一つのエントリーの完成度を高めようとすると、「文章が長くなる」→「一回じゃ書ききれない分量になる」→「すぐに記事をアップできなくなる」→「更新頻度が下がる + 更新意欲がなくなってくる」→「ブログの更新が停滞する」というコンボが決まってしまうので、「完成度を高くしたい!」という気持ちと「もの(この場合はブログのエントリー)を仕上げる」という行為のバランスを上手く取ることが肝要だなと最近はヒシヒシと感じます。

ブログだけに限らず、個人が趣味の範囲で始めるものつくりなどもあてはまるところ、ありませんか? 加えて、今はTwitterFlickrなどといったサービスがどんどん出てきているので、同じような事態に陥ることももしかしたら多いかもしれません。

結構長くなってきたので、書きたいことの続きはまた次回に書きます。